2015年11月28日土曜日

薬が必要なときがある

明らかにうつ病にある方、発達障害でいろいろ対応している中で落ち着きがなく、イライラが止まらない方。

僕は薬を処方するのが好きな医者ではありませんが、医療者としてどう見ても薬があったほうがいい場合があります。

でも中には薬がどうしてもいやだという方がいます。理由をお聴きすると、「ネットで書いてたのを見て怖くなって」というのが一番多く、「やめれないと困るから」、「~さんが飲んでしんどくなったから」などです。

まあ、理由は何であれ、頑なに拒否されます。もちろんそのお気持ちも理解できます。はじめは誰しも薬を飲むことが不安になるのは当たり前です。その時、僕は当然、強くはお勧めしません。薬なしでしてみて、それで生活ができそうならそれでいい。しかしやはりしんどいなと思う方にはお出しするようにしています。もちろん副作用のために生活に支障があるくらいならすぐに中止します。

最終的な僕の意見としては、薬があったほうが少しでも楽に過ごせるだろうとこちらが判断したときは薬をお勧めします。なぜなら、薬なしで、耐える時間が長くなって、もっと事態が大きくなったり、調子がもっと悪くなってしまうことがあるからです。追い込まれたときに薬が症状をブレイクスルーしてくれて、状態をよくしてくれることがあります。そうすることで家族や周囲の人も余裕が生まれて楽になり、好循環に入っていけます。

当たり前のことですが、薬が必要なのかなと迷われたときは医療機関で薬についてご相談いただけたらと思います。

2015年11月25日水曜日

虐待という言葉の功罪

虐待という言葉が新聞で多く見られるようになりました。
厚生労働省の虐待の定義にはこうあります。

虐待は4つに分類されて、その中には身体的虐待(殴る、蹴るなど)、性的虐待(子供への性的行為、性的行為を見せるなど)、ネグレクト(家に閉じ込める、食事を与えないなど)、心理的虐待(言葉による脅し、無視など)がある。もちろん、この4つについてはさらに多くの状態が含まれます。一見、殴る、蹴る、無視するなどを見ると、昔ならどんな家庭にもあったのではないかと思えることがあります。

虐待という言葉があることで、昔であれば助けられなかった子どもたちを救えていることは間違いありません。小児科医として、精神科病院の勤務医として、子ども家庭センターで嘱託医として働いていたとき、僕自身が児童相談所に通報して、親御さんにも説明し、虐待を受けた子どもたちが一時保護されて施設に入所していく姿を目の当たりにしてきました。虐待という言葉が今くらい広がったからこそ救えた命だと思います。

一方で、虐待という言葉がはびこりすぎて、虐待という言葉に敏感になり、「私は子供を叩いてししまいました。これは虐待じゃないかと思うんです。子どもを叩いていいんでしょうか?」。涙ながらにこんなことを語るお母さんに本当によくお会いします。叩く=虐待という考え方。叩けとは言いませんが、叩くという行為を全面的に禁止する中で、子育てが実際に可能なのでしょうか?「ほめて育てましょう」、「子どものいいところに注目しましょう」。耳障りはいいですよね。これで育児ができる子は確かにいます。でもそれで育児が難しい場合にはどうしたらいいのでしょう。叩くことを奨励しているわけでは決してありません。叩く=虐待という短絡的な解釈はまずいなと思うのです。

僕が一番多く出会うパターンをご紹介します。

怒ってはいけない、叩いてはいけないから優しく子どもに注意する→子どもはきかない→また優しく注意する→それでも子どもはきかない→少しイライラしながら注意する→やはり子どもはきかない→これを何度か繰り返して、最後は親が我慢できなくなって、ドカーンと怒ってしまう→子どもは泣く→親は怒鳴った自分を責めてしんどくなる

このパターンを変えることは難しくありません。1回目に注意するときに「君のその行動は間違っているよ」ということを子どもにわかるように伝えることです。その手段が優しく言うことであれ、きつく言うことであれ、それは家族ごとの考えで構いません。それでダメなら、叩くこともあるでしょう。大切なのは親の言葉が子どもに伝わっているかどうかだけです。

子どもは真っ白な状態で善悪の区別はつきません。生まれたときから善悪の区別がつく人なんていません。当然、間違ったことをします。それを修正していくのが親を含めた周囲の大人の重要な義務であると僕は考えます。

ほどほどに虐待という言葉が広がることを切に願います。

2015年11月21日土曜日

自分はよかれと思っていても

今日はある地方都市に勉強のために来ました。そこにあるビジネスホテルで最上階にある露天風呂に入るためにお風呂の受付にエレベーターで上がると、そこには受付の広さに似合わないくらいのホテルスタッフの多さ。僕としては旅の疲れを癒すためにゆっくりしたいという気持ちの中、受付にきたのですが、ホテルとしては最上級のおもてなしをしているという自信を感じる印象。正直、難しいなと感じました。ホテル側と僕の感じたことにずれがあるわけです。もちろん、僕が感じていることが大多数だとか、正しいとかいうい問題ではありません。ただ、ホストがよかれと思うおもてなしと僕が望むおもてなしにずれがあるということでした。

僕も一商店としてのクリニックを経営している者として、自分を振り返るいい機会となりました。今の自分のおもてなしがベストであることはありえません。通院していただいてる方々が「ここはこうしてほしいな」と思うところがあるはずです。これからも当院に来られる患者さんやご家族の意見を常にお聞きすることがニーズを知ること上で最も大切なことであると感じました。

2015年11月18日水曜日

熱演に勝る好演はなし

僕は萩本欽一さんが大好きで、先日、NHKのファミリーヒストリーで東貴博さんが出ていたので、萩本さんが出るはずだと録画して見ました。皆さんご存知のとおり、萩本さんの師匠は東八郎さんで、その息子さんが東貴博さんです。萩本さんの本の中には東さん親子の話がよく出てきます。萩本さんは東八郎さんの死後、師匠への恩返しとして、東さんの息子の貴博さんに芸を教えた話は有名です。

この番組の中で、人気絶頂のころの東八郎さんのインタビューの場面が出ていました。東さんはこの中で「熱演に勝る好演はなし。うまくなったからといって、小手先でものはやるな」とおっしゃっていました。いい言葉だなと思いました。人は少し何かの技術が上がると、それほど頑張らなくても結果を出せてしまうので、頑張るということをしなくなることが多い。でもそれをするから、きっとその人は落ちていくのでしょう。そこでも熱演を続けた東さんだから頂点を維持できていたのでしょう。この差が一流とそうでない人の違いだと思いました。どんな技術よりも一生懸命に仕事をすることが最も尊いことなのでしょう。

2015年11月14日土曜日

時間をかければ楽にはなるけれど

前回のブログの「最短時間で楽になってもらう」という自分の仕事について続きを考えてみました。

多くの患者さんにお会いして思うのは時間さえかければ、多くの方々はよくなられるということです。物理的に時間が経過して、辛さが軽減したり、苦しい状態から抜け出すためにご本人は全力で楽になる方法を探すし、そのうち偶発的にいいことが起きる可能性も高い。でも人はそれをわかっていても、その時間が待てずに苦しい。なので精神科や心療内科をたずねて来られるのかもしれません。その待てない時間を少しでも短くして、早く楽になってもらうためにこの世には精神科医や心理士がいます。逆に、その時間を短くできないのであれば、その精神科医や心理士の治療はどこか間違っているのでしょう。少なくとも、僕は自分の治療を振り返るときにそう思って治療しています。

2015年11月10日火曜日

最短時間で楽になってもらうことが僕の仕事

どんな職業人も自分の仕事を突き詰めていく作業をしている。僕は今自分がしている仕事は突き詰めるところ、何なのかなと考えます。

精神科を訪ねて来られる人が本当に求めていることは何か。医療機関を受診する人が本当に求めていることは何か。それを一人で考えてみました。僕が患者さんならどうかなと想像してみました。それは「最短時間で楽になりたい」。これに尽きる気がします。そしたら、僕のすることは決まってきます。宋こどものこころ醫院のスタッフの総力を結集して、来てくれた患者さんを最短時間で楽にする。これをただひたすら追求、そして継続していく。それが今進むべき道なのだと思っています。

2015年11月4日水曜日

子供に失敗させてみる

親は自分の子供が失敗するのを見たくありません。でも人は失敗することなくして、学習することはありません。これは大人であれば誰も否定できないことではないでしょうか。

自分の実体験としては失敗をしてよかったなとは思うけど、子供には失敗させたくない。どの親も感じることでしょう。この矛盾をどう埋めたらいいのでしょうか。

親にとって子供は一番の弱点です。子供に甘い親は自分にいくら厳しくても、最終的には甘い人なのかもしれません。自分より大切な子供が辛い状況にいることが我慢できない(もちろん、大きな病気や障害などハンディキャップを担っている場合は別です)。

親は子よりも先に死にます。そのあとにあなた以上にあなたの子供を大切にしてくれる人はまずいないでしょう。それなら、あなたの子供がこの世で生きていける力をあなたが死ぬ前につけてあげることが最も大切ではないでしょうか。そのために親の裁量の範囲で子供を失敗させてみる。失敗は成功の母。僕自身も親として、この言葉の意味を改めて考えてみたいと思います。

2015年11月2日月曜日

才能=努力

「ゲーテ」という雑誌をご存知でしょうか?僕は幻冬舎の見城徹さんが大好きで、大人の男の雑誌も好きなので、定期購読しています。

その中に、毎回、作家の村上龍さんが短いコラムを書かれています。
今回の題名は「努力という才能」。

元プロサッカー選手の中田英寿さんがイタリアで活躍されているときに村上さんが中田さんの試合と練習を見に行ったときの話でした。豪雨の中、練習は中止になって誰もいないグランドで中田さんが一人ずぶ濡れになりながら、暗くなってボールが見えにくくなるまでボールを蹴っていました。その日の夜の食事で、なぜ雨の中で一人でボールを蹴っていたのかをたずねると、中田さんは質問の意味が分からないという表情で、「だって、雨でもサッカーのゲームは中止にならないですよ」と答えたそうです。

そのときに村上さんは「どんな人間でも、これだけ練習したら、きっとそれなりの選手になれるだろう。これだけの練習ができるというのが才能なんだ」と思ったそうです。

人は秀でた人を見ると、「才能があるんだろう」という簡単な言葉で片付けがちです。僕も安易にそんな言葉を口にしてしまいます。このコラムを読んで、才能のある人=努力をする人、いや「才能=努力」なんだと感じました。今日からは「才能があるんだろう」ではなく「努力したんだろう」と言い換えたいと思います。