2014年4月8日火曜日

生きることは自分にとっての「真実とは」を探すこと

僕は哲学的なことは全くわかりませんが、物心ついた10代から日常生活での一つ一つの悩みを通して、生きていることは結局どういうのことなのかと自分なりに思いあぐねてきました。

例はいくつもありますが、たとえば、人付き合いでうまくいかないのでどうしたらうまくいくのか、テニスがうまくなりたいけどどうしたらうまくなれるのか、一番自分がリラックスできる時間の使い方は何なのか、どうすればいい診療ができるのか、自分が一番わくわくするものは何なのか、自分とはどんな人間なのかなど、枚挙にいとまがありません。さらに言えば、今日のお昼に何を食べようかなあ、自分は何が食べたいのかなあと考えることさえ自分が本当に欲しているものは何かと考える点で、それほど違わないと思っています(笑)。これらに共通することって何なのか。30代に入ってあるときふと気づいたのですが、これは自分にとって「何が真実なのか」を追及することなんだと。要するにある事象や物事の中で何が一番いい方法なのかを悩んだその延長線上に、何が真実なのかを追い求めているわけです。逆に言うと、いろんなことを追及したり、悩んだりしないと、真実や人生は見えてこない。いつまでたっても五里霧中のままです。

故事や偉い人の言葉は多くの場合、物の本質をついています。なるほどと納得することが多いでしょう。しかし、たとえばその故事の中で「善は急げ」と「せいてはことを仕損じる」、「果報は寝て待て」と「まかぬ種は生えぬ」のように全く逆のことを言っているものがあります(こまかな解釈の仕方はあるにしても)。または故事を聴いて「自分はそうは思わないな」と違和感を感じた経験はないでしょうか。つまり人によって、どちらかに意見が割れることがあります。それは人によってその人の思う「真実とは」の定義が違うのだと思います。なので僕が「これはこうだ」と信じていることを他の人に押し付けることはできません(ただ聞かれた場合には自分なりの真実だと思うことを話します)。人によって見てきたものが違うため、「真実」が違うからです。何が正しくて何が間違ってるかという話ではありません。常軌を逸していない限り、その人なりの信じている真実があっていいのです。またその「真実」は年齢によって変遷していくことも当然あるでしょう。僕はいつの日か、いろんなことについての自分にとっての「真実とは」の答えが一つに集約されて見つかればいいなと思っています。

 「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ(精神的に自立する)。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう、他人の意見に反発を 感じず、素直に耳を傾けられるようになる)。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず(自分の思うがままの行いをとっても自然の法則から外れることがない)。」

有名な孔子の言葉ですが、これができる人は真実が見えてる人じゃないかと思っています。できるかどうかは別にして、目指していきたいですね。



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