2014年1月30日木曜日

「患者さんの笑顔が見たいから」という言葉

「患者さんの笑顔が見たいから」

どこかでよく聞くフレーズですよね。よく医療者は患者さんの笑顔を見ると幸せを感じるという話も聞きます。僕はこれについては何となく聞き流していましたが、自分に当てはめて考えると少し違うなと感じています。患者さんの状態がよくなったり、喜んでもらえると確かに嬉しくはなりますが、それが直接自分の幸せまでとはいきません。僕は幸せを感じるというよりも、内心ほっとするというのが本心です。患者さんが何らかの症状や問題を抱えられていて、それに自分が答えらるのかというプレッシャーを常に感じます。患者さんからの場合もありますが、どちらかというと自分から自分へのプレッシャーが強いですね。結果を出さないといけない。

特に開業医になった僕は患者さんによくなってもらえないと、その患者さんは来られなくなります。しかも精神科の治療は僕にとっては正直難しいです。まさに難問を与えられてる受験生と同じです。診察室の中で必死に考えて、ようやく治療につながるかどうかという程度です。なので、患者さんがよくなられると嬉しさもありますが、ほっとします。「僕はちゃんとニーズに答えられたんだな。あーよかった。」と胸をなでおろすわけです。そしてその日の診療が終わって、一息ついた時に充実感が自分の中にわいてきます。でも翌日にはそんなことは忘れて、また新たな難問に挑戦する。そんな日々の繰り返しです。

良くなられた患者さんのことよりも治せなかった患者さんのことをよく覚えているものです。自分はちゃんとニーズに答えられなかった、治せなかったんだなと。そう考えると悔しい思いをすることばかりです。そんな僕自身を奮い立たせるためにイチロー選手が日米通算4000本安打を達成した時の言葉を思い出したので、今日は最後にその言葉を載せたいと思います^^

「いい結果を生んできたことを誇れる自分では別にないんですよね。誇れることがあるとすると4000回のヒットを打つには僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね。」

2014年1月29日水曜日

知的障害の親の会で講演しました

今日は知的障害の親の会からお話をいただいて、講演させていただきました。

僭越ながらご依頼いただいた僕の治療への想いをお話ししました。今日の講演の準備をしながら、自分は何を思って仕事をしているのかを改めて自問してみました。結局のところ、僕は自分が幸せを感じるために仕事をしているのだなと気づきました。僕が幸せを感じるために必要な条件は①自分が成長していると実感できること、②誰かの役に立ってるということです。この2つを満たすために今の自分ができて、しかもしっかりとパフォーマンスを出せること。それは患者さんを治すための技術を身に着けて、患者さんによくなってもらう。これだとこの2つの条件を満たします。だから、患者さんを治すといいながら、結局は自分のためなんですよね。何も崇高な思いはありません。やっぱり生きてるんだから、幸せを感じていたい。ただそれだけです。

今日お話を聴いていただいたお母さん方の何かのお役にたてれば、僕はまた幸せを感じることができます^^講演の機会をいただき、、ありがとうございました。

2014年1月26日日曜日

患者さんが心を開くこと

「ここでは何でも話していいんだよ、先生が全部聞いてくれるから」

親御さんが子どもさんを連れて来られてよくおっしゃる言葉です。患者さん本人の気持ちを半ば強制的に話させようとするこの言葉。僕の中で、この言葉はかなり違和感のある言葉です。初めて会う大人に小さな子供がいきなり自分の本心を語ることはないということは以前に書きました。さらに僕の素朴な疑問として子どもでも大人でも診療の中で心を開くということが本当に治療になるのかということです(特に重症になればなるほど)。

確かに、安心や信頼がないと人は自分の本心を語りません。なので僕は患者さんに安心感や信頼感を持っていただけるよう丁寧に接することを心掛けています(しかも安心感や信頼感もゆっくり得られるのが普通です)。でも安心や信頼と心を開くということは違う気がするのです。心を開くということは自分の辛い体験を話すことになるわけです。僕は医者なので、患者さんの症状をよくすることが仕事です。辛い体験をお聴きするだけで症状がよくなる人もいますが、それは軽症の場合に多い気がします。辛い体験をご自身で話してもらうと、症状の話からは離れてしまい、感情が噴き出します。そしてその後にトラウマの再体験、つまりフラッシュバックのように状態が悪くなる方がおられます。つまり治療をしないといけないのに、涙が止まらないまま終わってしまったり、診察後に状態が診察前よりも悪くなって、「僕は何をしてるんだ」みたいに感じることも多々あります。

少なくとも子どもであれ、大人であれ、無理やり心を開かせようとするのはまずいなと感じています。治療するためには涙であふれたままで診療時間が終わってしまうというのはある意味危険です。状態が悪いままで帰宅してもらうことになるわけです。一番よくない例は重いトラウマ体験がある場合です。それは学校での激しいいじめもしかりです。治療するために経過や症状をお聴きする中で心が開かれて、感情が噴き出してしまうなら、症状を聴けているので治療につながるでしょう。でも辛い体験を語ってるうちに、会話にならないことがあります。そうなると治療ではなく、近所のおばちゃんの人生相談に終わってしまいます。単に吐き出してもらって終わり。それですっきりしましたとなる人もいるでしょう。でも重症になればなるほど、心を開いてもらうことには慎重にならなくてはなりません。だから精神科医の間ではトラウマの治療は慎重にしなくてはいけないとされています。何でもかんでも心を開けばいいってもんじゃない。僕は治療する医者です。症状があるなら、それをよくする方法を考えなくてはいけません。

僕はいたずらに患者さんの心を無理に開かせようとしませんし、患者さんも無理に「ここではすべて話さないと」と思う必要はないと思います。患者さんの人生や辛い部分を語ることが必ずしも治療につながらないからです。大切なのは治療につながるのかどうかです。

患者さんに心を開くなとは言いません。ただ、僕は丁寧に症状をお聴きして、それが治療につながり、結果的に心を開く。そしてそのころには状態が少しでもよくなってくれていることが理想です。なぜなら人は状態がよくなってくると自分の辛い体験も冷静に語ることができるようになるからです。なので心を開かせることは結果であって、まずは状態を少しでもよくすることが大切なのです。


2014年1月24日金曜日

子どもに強く言っていいのでしょうか

子どもにどこまで注意していいのか、叱っていいのか。

「子どもに強く言っていいのでしょうか?」

本当によくお聴きする悩みです。

まず、うつ病や適応障害などの精神疾患の場合にはどう接していくかは主治医と相談されながら具体的に決めることが原則です。

それではそうでない場合はどうするのか。僕の印象では子どもに強く言えないという悩みを持たれている方は子どもが幼い時から強く言わないようにされている方が多いようです(精神疾患が途中で始まった場合は別です)。子どもが何かで辛そうにしているとき、かわいそうになって、やさしい声で話しかけて、本人が望むことをかなえてあげたくなってしまう。これは普通の親心でしょう。誰も子どもが辛そうにしている姿を見たくはありません。僕も子供が熱を出しているとき、学校でショックなことがあって元気がないとき、どうしたのかと聞きますし、辛そうにしている姿を見たら何でもしてあげたくなります。この時に何をどこまでしてあげるのか。

その判断をする場合に必要なのはこの2つです。

1.普段の子どもの観察
2.どんな時も善悪の区別をつける

1は辛いことがあっても、どの程度まで改善してきているのか、あるいはまだしんどそうなのか。その判断は普段からしっかり観察していれば、たまに会う医者よりも親のほうがよほど感じることができます。

2は1での観察をもとに、家の中でもいいこと、悪いことの区別をつけていくという原則を崩さないことです。本人がしんどそうにしているからと、横柄な態度、暴言などを許容すると、しんどいときは何をしてもいいという流れが生まれます。さらに言うならうつ病の子どもは親に暴力を振るっていいのかということです。暴力は立派な傷害罪です。それは子どもが悪いというよりはそれを許容しているこちら側に問題があるわけです。

ここで大切なことはどこまで受容するのかを初めから親が決めておくことです。しんどそうにしているからと小さな許容を重ねていくと、少しずつ間口を広げるように子どもたちはここまでは許されるだろうとエスカレートしていきます。その間に子どもたちは体が大きくなり、知恵がついてきます。もうここで限界だと親として我慢できなくなったときに親もきれてしまう。そうなると子どもはそのころにはそれに反抗できてしまう体や知恵をもっているため、親子喧嘩は大きくなるという構図です。そうなってから児童精神科を受診される方が多いようです。でも、もうその頃には構図が固まりすぎています。

いつもお話しすることですが、子どもたちが本当の意味で人としての審判を受けるのは大人になって社会に出てからです。学校というところにいる限りは学費を払っているお客さんです。さらに最近はいろんな親御さんがいるため先生方も子どもたちをきつく叱れなくなってきました。でも社会人となると、今までのお客さんという立場とは反対にお金をもらう仕事人です。

家でのルールは人として生きていく上で一番初めに子どもたちが触れるルールなのです。





2014年1月22日水曜日

子育ては自分の子供時代を生きなおすこと

子どもを産み、子育てを始めると、はじめどうしていいかわからないので、人は自分の子供時代を思い出そうとします。僕もそうでした。風邪をひいて熱を出したときにおでこを触ってくれたこと、寝ている僕を父がおぶって家の階段をのぼってくれたこと、人にあいさつをしないで怒られたこと、どうやって生きていくのか考えておくように言われたこと。それとまったく同じことを僕も今自分の子どもにしています。いいことも悪いことも含めて、子育てをしながら、もう一度自分の子どもの時の体験をしています。診察の中でも自分の子供時代のお話をされる親御さんはたくさんおられます。

また子どもを産んで育てることは自分の親について考えることになります。子どもの姿を見ながら、思うのは自分が子どものころの親の気持ちです。どんな気持ちで自分を育てて、どんなことを思っていたのか。これも自分の子供時代の親の気持ちを想像することになり、自分の子供時代を生きなおすことになります。

僕は自分の子供時代を生きなおしながら、自分が受けた子育てよりもさらにいい方法はないのかと考え、自分の親の気持ちに思いをはせながら自分が親としてどうしていけばいいのかも考えてきました。

みなさんも子育てをしながら、自分の子供時代を生きなおしておられると思います。過去の自分の子供時代をやり直すことはできませんが、今、目の前にいる自分の子育てはまだやり直しがききます。一生懸命子育てをして、一人でちゃんと生きていける子供にしてあげてください。




2014年1月21日火曜日

診察の中で患者さんにどんな質問をするのか

問診の中で患者さんに何を質問するのかはその精神科医の能力を示すと考えています。これは精神科医でなくとも医師全般に言えることです。患者さんに無駄なことをたくさん聞いてしまう医師はできない医師と言えるでしょう。その質問はちゃんと治療へつながる道筋があり、治療にとって必要な情報を得るために質問しているはずです。ただ、医師の教育では初めに問診を教えますので、そこでは通り一遍のことを聞くように言われます。これは医師がやみくもに聞いてしまう原因の一つでしょう。

たとえば患者さんの訴えが不眠であればいつからなのか、思い当たるきっかけはあるのか、何時に寝て何時に起きるのか、途中で目が覚めるのか、夢をたくさん見るのか、翌日の集中力はあるのか、睡眠薬は飲んだことがあるのか、うつ病の可能性もあるから日中の気分や食欲を確認しないといけないなどなど、不眠を治療するために必要な情報を集めるわけです。このときに会社や学校のこと、家族のことなどは情報としての優先順位は後でいいわけです。これは内科の先生が腹痛を訴える人に対してどんな痛みなのか、どこが痛むのか、どんな時に痛むのか、食事はとれるのかなどを聞くことと同じです。これは弟から聞いた話ですが、できる内科医は問診だけで1時間かけるそうです。逆に、それくらい聞くことがたくさんある。ただ的外れの質問を多くしても仕方ないし、少なすぎることも逆に心配です。大切なことはちゃんと治療につながる質問になっているのかです。

僕も小児科医になりたてのとき、何をどう聞いていいのか本当に迷っていましたし、現在でもまだ質問をしながら迷うことがあります。まだまだ無駄なことを質問していることも多いと自覚しています。ただ、これからもっともっと洗練して、質問がうまくできるようになりたいです。

2014年1月18日土曜日

慢心しようがない

予備校講師の林先生の本によると東大生は「自分はあまり勉強してません」とよく言うそうです(再登場ですみません、最近読了しまして)。

恥ずかしながら、この言葉から自分自身のことを振り返ってみました。こんな自己評価の低い僕でも「お医者さんなんですね」、「韓国語を話せるんですか」、「すごいですね」みたいなことを言われることがたまにあります。それを聴いて当人の僕としては内心、褒められてるという感覚というよりは少し違和感をずっと感じてきました。「僕は本当にそんな大したものじゃないんです」と真剣に思っていますし、その時にどう反応していいのか迷っていました。これは謙遜とかそんなきれいなものではないんです。その自分の気持ちに最近、林先生のこの本で整理がつきました。なぜかというと、僕なんかよりもすごい人に日常的に(実際に、本で、テレビで)会うからなんです。その「すごい」という単語の定義は自分よりも素晴らしい人、優秀な人、器の大きい人、魅力的な人など僕がうらやましいなあと思う人です。さらに実社会で失敗しまくる自分に出会います。特に診療がうまくいかず、自分の無力さが情けなくなります。

整理すると、つまりこんな状態ではないかと思うのです。

自分よりもすごい人に会う回数+自分がだめだなと思う回数>人に褒められる回数+いい結果が出る回数

圧倒的に左側が多くて、慢心しようがない。東大生も同じなのではないかと推測します。自分より勉強している人や優秀な人が多い上に、自分がだめだなと思う回数がほめられる回数やいい結果が出る回数よりも多いのでしょう。

もし慢心してしまうとすればそれは世界が狭すぎるのか、周りが見えていないのかのどちらかではないかと思います。「慢心するな」といいますが、これでは慢心する暇がない。この世の中はうまくできてますよね。ちゃんと勝手に人を謙虚にしてくれます。だから人って努力できるんですよね。


2014年1月15日水曜日

質問をされない診察

先日のスイッチインタビューで去年大ブレイクした予備校講師の林修先生のお話を聴きました。その中で「授業は商品であり、毎年同じ質問を受けている予備校講師はダメだ」という話をされていました。林先生なら2回同じ質問をされたら、自分の授業がどこが悪かったのかを検討し、二度とその質問をされないように授業をするというのです。

これは僕の診察も同じだなと思いました。僕にとって診察は商品です。街のおばちゃんの人生相談ではいけないわけです。教科書にある専門的な知識や薬のこと以外に、話の聴き方、患者さんへの質問の仕方、声のかけ方、アドバイスの内容まで、プロにしか言えない、僕にしかできないことを提供していかないといけないと思っています。さらに理想を言えば、診察の最後まで質問のでない診察が最高なのかもしれないと思いました。患者さんの質問を予想して、それを先回りして説明を終えてしまえるような診察。もっと言えば、患者さんの想像を超えるような診察。感動させられるような診察。「こりゃすごいわ」と言ってもらえるような診察。僕らも素晴らしい料理、芸術、技術に触れた時に感動することがあるでしょう。それがプロなんじゃないかと思うんです。お客さんが予想できる範囲のことしかできないのはプロじゃない。うどん屋さんで普通の味のうどんが出てくるのは当たり前です。家庭で作れない味のうどんが出てくるからお客さんは感動してそのうどん屋さんにまた行きたいと思うわけです。

ただ実際は自分の中でもふがいない診察をしてしまうときがあります。そうなるとすごく後味が悪い。むしろ自分がこの診察は本当にうまくできたと思えるのはあまり多くないかもしれません。自分で納得できていない。正直、自分のふがいなさに悶々とします。さらに患者さんも満足して帰ってくれたのかなと不安になる。あるいは患者さんは納得してくれていても自分が納得できていなければ、それもいやです。どうしたら診察の質を高められるのかの模索を続けながら、いつの日か、自分も患者さんも満足できて、質問をされない診察ができたらと夢想しています(笑)

2014年1月13日月曜日

お金をきれいに使う

僕ははっきり言ってかなりケチな人間です(笑)子どものころは弟といるときはいつも自分が先いいものを取って、それを弟に貸さないみたいなことをしてきました。今でも無駄だと思うところにお金を使いたくはありません。

大人になりながら、いろんな人のお金の使い方を見てきました。今の時点で思うことは「ケチなことと卑しいことは違う」ということです。自分にはあまりお金を使わずに、友達のお祝いにはしっかりお金を使う人。逆に自分の楽しみや装飾にはお金を使い、他人にはお金を使わない人。他の人のお金の使い方を見ながら、ケチな僕はお金の使い方を学んだ気がします。

お金の使い方はその人の本質を表す大きな要素の一つではないかと考えています。よほど楽にお金を稼いでいたり、お金があふれている富豪は別にして、お金が生きていく上で大切なことは誰しも同じです。その金を稼ぐためにみんな必死に働く。あくまで僕の印象ですが、お金を稼ぐのに苦労している人であればあるほど、お金の使い方がきれいな人が多い気がします(または幼いころからいい意味で余裕のある生活をしてきた人もきれいなお金の使い方をする気がします)。

韓国のことわざに개같이 벌어서 정승같이 쓴다というのがあります。

犬のように汚れる仕事もいとわずに一所懸命稼いで、きれいに使うこと。「汚く稼いできれいに使う」ということです。

お金をきれいに使うことは人を美しくしてくれる気がします。ケチな僕も卑しくはなりたくないので、きれいなお金の使い方をしていきたいです^^

2014年1月12日日曜日

誰にでも物語がある

人は他人を評価するとき、一つの事象でその人を評価することが多いと思います。そのいい例が芸能人や政治家のニュースではないでしょうか。世間から見て変なことをした人はもうそれだけでダメな人、ダメな人生。逆に~賞をもらった人、すごい学歴の人は人格も人生もすごいという扱いになります(それを煽るメディアの責任もあるでしょうが)。でも果たしてそうなのかと思うのです。その事実は確かにそうなのでしょう(それが事実無根ということもありますね)。でも、近親者でもないかぎり、、その人の人格や人生まではわかりません。いや近親者でもわからないかもしれない。僕自身、自分の家族や兄弟の人となりを正確に把握しているのかと言われても、わからない部分もまだまだあると思っています。

僕は少なくとも30年以上生きている人にはそれぞれ誰にでも物語があると思っています。そして誰にでも耳を傾ける価値がある。それは平凡に見えるサラリーマンも有名人も同じです。

いろんな人の人生を聴いているうちに、いつの日からか、こう思うようになりました(それまではもちろん僕も人の評価や批判を簡単にしていました。患者さんは僕に人生を教えてくれます)。それ以降は人の評価というのを簡単にはしてはいけないという思いになり、人を評価するときにはその事実についてのみ評価し、それ以上のことは言いにくくなりました。他人の評価で盛り上がっている人を見ると辟易とすることもあります(もっと言えば、他人にそんなに興味を持つほど、ご自身の人生が暇なのか、退屈なのか、単なるストレス発散なのか、あるいはやはりその人の物語があるのかといろいろ推測してしまいます)。つまりある一事象と人格はそのままイコールにならないのに、それを人は勘違いしてしまう。さらに人は変わる可能性もあるということです。精神科で言えば、覚せい剤やアルコールの依存症の人をみて、多くの人は「どうせまたやるんでしょ」という目で見ます。でも事実、依存症を克服する人はいるわけです。なので、人の判断、評価はそんなに簡単にしてはいけないと思うのです。それをするのなら、かなり慎重に時間をかけてすべきだと思います。

誰にでも物語がある。僕はそう考えています。


2014年1月11日土曜日

考え方を柔軟にすることの大切さ

最近、よく思うことなのですが、人って自分の考え方が固まってしまったら、それで終わりなんじゃないかと思うんです。人は誰しも自分の価値観というものがあります。それまで自分が見てきたこと、考えてきたことで目の前のことを判断する。至極当たり前のことですよね。でもそれだけに固まってしまって、他の人の意見を受け入れられないと、人との衝突が増えたり、ストレスが増えて、生きていく上でぶつかる問題が増えて、生きづらくなる。つまりは考え方に柔軟性があるほうが、結局は自分が楽に生きられる。自分の価値観で他の人のことを批判するのは簡単です。最近なら「きれる」という単語を使いますが、きれることは簡単です。

一方で、他の人の意見にばかり阿ると、自分というものがなくなってしまう。ではどうすればいいのか。

僕は他の人の意見を聞いた時に、自分の価値観と違うなと思うときは、まずはたとえ一瞬でもいったんその意見を飲み込むようにしています。つまり頭ごなしに否定しない。一瞬だけでも受け入れて、その人の考え方を想像してから自分の意見を話す。また今までの自分の中になかったものだなと思えば、興味がわいてきて、それを取り入れたいなと思うときも結構あります。

今朝の新聞に作家の渡辺淳一さんの言葉がありました。

「自分と違う考えの人を嫌ってはいけない」

朝から唸ってしまいました(笑)

僕の大好きな言葉に「柔よく剛を制す」という言葉があります。昔の人は本当によく言ったものだなと思います。


2014年1月10日金曜日

新たな試みをしてみようと思います

僕はこのブログを通して多くの人たちの役に立ったり、癒しになってもらえたらと思っています。ホームページの「ごあいさつと想い」という文章もそうです。

そこで今年はさらに新たな試みを考えてみました。それはクリニックの外に文を掲示することです。クリニックは長堀通という大通りに面しており、3階立てで、1階から入る構造になっています。去年に開院したときから前で立ち止まってクリニックを見てくれている人たちがいらっしゃることは気付いていました。そこで当院の前を通る人が少しでも元気になれたり、お役にたてたり、受診する緊張感を少しでも溶かせられるような文を書いていきたいと思いました。

まずは手始めとしてこんな詩を掲示しました。ある人の詩です。字は副院長(僕の父)が書きました。

この詩は虐待を受けた子どもの気持ちを表現しています。










2014年1月8日水曜日

医者と患者の相性を決めているものは何か

「前の先生と相性が合わなくて」、「患者さんと相性が合わないと治療が難しい」

精神科診療の中では医者と患者の相性という言葉がよく出てきます。これっていったい何がその相性というものを決めているんだろうか。僕も自分の中で悶々としてきました。それで今の時点で気付いたことを書いてみたいと思います。

医者と患者の相性と呼ばれるのものは何が規定しているのか。

その要素はたくさんあるでしょうが突き詰めてしまえば、

「患者として自分がもっとも深刻だと思っている部分を話しているときに聴いてくれているのか」

これだと思っています。しかもこの波(タイミング)は初診の時にも来ますが、その後も再診の中でポイントとして何度かそういう波が来ます。状態が悪くなった時、不安がわいた時、疑問がわいた時などです。しかしその表現の仕方は様々です。自分が深刻であるということを騒ぎ立てるように訴える方、涙を流しながら語る方、何事もなかったかのようにしらっと話す方。騒ぎ立てる方や涙を流される方はわかりやすいので、ああ深刻なんだなとすぐにわかります。でもしらっといつもと何も変わらない表情でほんとに軽く辛いことを話される方は注意が必要だと感じています。何となくいつもと表情が違う、声の調子、態度の違いなど、これらをいかにキャッチできるか。僕自身、これをキャッチできずに、苦い思いをしたことがたくさんあります。僕は治療にはいわゆるphaseというのか、時期というのか、そういう流れがあると思っています。その目に見えないものをこちら側が注意して感じていかないと見落としてしまう。それキャッチしないと信頼関係が壊れてしまう。第六感とでもいうのでしょうか。その部分を研ぎ澄ましていきたい。

逆に言えば、そのポイントさえ外さなければ、医者と患者の関係(いわゆる相性)はまずまず良好に経過していくはずです。もっと広く言えば、人間関係のすべてにおいてもそうではないでしょうか。自分が真剣に話しているときにその友達は自分の話を受け止めてくれているのかを無意識に推し測っているはずです。その時に聴いてくれたとなれば、その人を信頼できるし、それを受け止めてくれなかったとなれば信頼できないでしょう。

ここまで読まれて、相性は患者と医者の相互の信頼関係のはずなのに、どうして患者の立場だけ?という思いを抱いた方がおられるかもしれません。僕はここまで患者さん側から見た医者という方向だけで書いてきました。では医者側から見たものは?それは医者も人間ですの患者さんに腹が立って、嫌いになることもあります。そうなると患者さんを信頼できずに関係が築けない。それもあるでしょう。しかし精神科医を仕事、生業としているものとして、決まった診察時間内であれまずは患者さんの言われることを受け止めることから始めないと治療は始まらないと思うのです。医者が患者さんに会って内心、「変な人だなあ、嫌だなあ」と思って、それを感情に任せて(患者さんに内省してもらうために治療的に感情をわざと出すこともありますが)、治療しようとしてもうまくいくわけがない。どんな人であれまずは受け止める。ここから治療や関係が始まるものだと信じています。

2014年1月6日月曜日

何か一つでもできる障害児にしたい

みなさん、発達障害の子どもというとどういうイメージでしょうか。

暴れる、言うことを聞かない、落ち着きがないなどすごく悪いイメージが付きまとうように思います。たくさんの発達障害のお子さんに出会う中で、僕は本当に素直な発達障害のお子さんにも出会います。

視線が合う、あいさつができる、話を聴ける、指示が入る。最近は健常のお子さんでもこれらのことができないお子さんが多いように感じます。ところがこれらができる自閉症のお子さんもいます。

自閉症のお子さんで人に会ったら視線を合わせて、あいさつができて、質問にこらえられて、注意されるとそれを素直にきける。

どうしたらこんなお子さんにできるのかなという素直な疑問から僕はその自閉症の子を持たれているお母さんに「どんなふうに接してこられたのですか?」とお聞きしました。するとお母さんは「同じ障害児でも何か一つでもできる障害児にしたいと思って育ててきました。いいことはいい、悪いことは悪い。人に接するときの礼儀を教えてきました。」僕はこの言葉に感動して、思わず口から「お母さん、すごいですね。本当に多くのご苦労があったでしょうね。」という言葉が出てしまいました。するとお母さんは大粒の涙を流されていました。僕は内心、畏敬の念を抱きました。

このときに思ったんです。やっぱり自閉症であったとしてもしっかり社会に適応できる子はいるんだ。子育て次第でこんなに素晴らしい子どもに成長できるんだと。障害児だから仕方ないではなく、子育てでしっかりとした一人の大人に育てることはできるんです。

何か一つでもできる障害児にしたい。

本当に意味深い言葉です。

2014年1月4日土曜日

僕には何もないから

「どんな治療をしてもらえるんですか?」、「治療にはどれくらいかかりますか?」、「良くなりますか?」

はじめてお会いする患者さんやご家族によく尋ねられる質問です。僕自身も一人で考えます。患者さんを前にして、自分は何ができるのか。どこまでよくできるのか。患者さんは時間とお金を払ってわざわざ来てくれている。それにどう答えていくのか。

正直なところ、患者さんを前にしたときに自分がこれまで学んできた知識や「~療法」という治療法を念頭に置いて治療しているわけではありません。まずはただひたすら患者さんの状態を把握するためにお話を聴いて、どんな状態かな、どんなことができているのかな、そのストーリーをまとめることに腐心するだけです。そのあとに、どこから手をつけたらいいのかを考えて、大まかな治療の道筋を立てて、それをお話して初診を終えます。

先日のスイッチインタビューで作家の天童荒太さんが女優の中谷美紀さんに「どうしてそこまでなりふり構わない演技ができるのですか?」という質問に中谷さんが「舞台に立つと自分には何もないことに気付くんです」と答えておられました。今や、日本を代表する女優になっても自分には何もないと答えられる正直さ、謙虚さに驚きました。僕もこの時に、あっ、僕も同じだと思いました。僕には何もありません。何もないという気持ちから始まる。何もないから患者さんに向き合うしかない。その中で今まで勉強してきたこと、考えてきたことが自然と出てくる。その時に自然と出てくるものが本当の僕の実力や技術なのだと思っています。意識して何かの奥義を出すわけではありません。医者になってすぐのときは自分が勉強したものに当てはめようと、薬や治療法の枠に患者さんを当てはめて考えていました。でもそれでうまく行くことはあまりありません。

いつも真っ白な自分でクライアントに向き合うこと、それがプロだと信じています。

2014年1月1日水曜日

2014年、明けましておめでとうございます!

みなさま、明けましておめでとうございます!

一年の計は元旦にありという言葉にあるように、お正月になるとその年の目標を立てるものだという雰囲気があると思います。

僕もこれを信じて子どものころから今年はこんな年にしたいなどと想像していたものです。でも大人になるにしたがってお正月に思ったことは数日もすれば日々に忙殺されて、忘れていることに気付きました。誰かが言っていました。人生にあるのは「今」だけ。過去でも未来でもないと。

人は生きている中で過去(辛いこともうれしかったことも)から離れられなかったり、未来に思いをはせてそれに縛られてしまったりするものです。でも本当に大事なのは過去や未来ではなく、今、今日、この瞬間をどう生きているかだと思います。いくら過去を思っても今の目の前の現実は変わらない。今の積み重ねが良くも悪くも未来になります。元旦の今日が大切な特別な日のように扱われますが、僕は元旦は所詮365日の中の1日であり、日々の1日1日すべてが大切であると思っています。過去を後悔したり、未来に絶望しないでいい。今日も1日よくやった。毎日、1日を終えるときに自分をほめてあげてください。黒柳徹子さんは夜、床に就くときに自分の体の一つ一つに「今日も1日お疲れさま」と言葉をかけるそうです。身体に加えて、自分の心にも「今日も1日お疲れさま」と言葉をかけてあげてください。