2013年12月28日土曜日

今日は今年最後の診療でした

今年8月6日に開業して、ようやく今日、今年最後の診療の日を迎えることができました。

はじめのころに体に入っていた変な力(?)はかなりましになりました(笑)

スポーツをいくつかして思うのですが、すべては力の抜き方です。普段は力を抜いて、必要なときだけ力を入れる。僕は勝手にこれが仕事もスポーツも共通する極意だと思っています。ずっと手をグーにはできません。力をゆるめてパーにしないといけないときが必ず来ます。

開業前からたくさんのご指導をいただいた先輩、友人、後輩、元勤務していたところからわざわざ遠くまで通っていただいている患者さんとそのご家族、そして、両親と家族に心から感謝したいです。

そして、このブログを読んでいただいているみなさま。ビューの数が増えていることにどうしてもうれしさを隠しきれません(笑)。今年はブログを始めたばかりの素人の文章にお付き合いいただきありがとうございました。来年もみなさんにとって少しでも有意義な文を書くために日々研鑽を続けていきたいと考えております。よろしくお願いいたします。


2013年12月26日木曜日

厳しい環境で育った子は頭がいい

虐待を受けた子、うつ病の子、激しいいじめにあった子、リストカットを激しくする子、施設で暮らしている子。特にいわゆるアダルトチルドレンの家庭(機能不全家庭)の子たちです。ほんとに幼い幼稚園児から大学生にいたるまで児童精神科に来る子どもたちに会うといつも思うのは本当に目先が速くて、大人の考えや気持ちを読んでいて、頭がいいことです。はっきり言って、普通に生きている大人より上手を行くと僕は考えています。

逆に言えば、この子たちは実年齢よりも早く大人にならざるを得なかった。だから子どもらしくぼーっと生きることができなかった。その世界を生き抜くために大人の考えていることを必死に予測して、いかに自分が被害を受けないで済むのかを考え抜く中で身に着けたスキルなのでしょう。

僕は診察の中でアダルトチルドレンの子どもたちに出会うときには普段以上に緊張します。この子たちに中途半端な気持ちで向かうわけにはいかない。なぜなら真剣にその子に向き合わないと、その子にそれが伝わってしまい、人間関係が築けないからです。この子たちとしっかりとした信頼関係を築けないと治療にもなりません。なので、僕は子どもたちとの関係を築くことに何よりも腐心します。その子たちの問題に一緒に向き合うために。

2013年12月22日日曜日

不登校の子はなぜ1日中ゲームをするのか?

児童精神科外来でダントツ1位を占めながら最も治療困難な不登校という状態。この子たちに共通すること。それは1日中ゲームをしていることです。

僕はこれについてずっと考えてきました。なぜこの子たちは1日中ゲームをしているのか。単にゲームの中毒性で説明がつくのか。その率直な疑問を僕が主治医として担当し、不登校から抜け出して学校に行けるようになった子たちに聞きました。

その答えで多かったのはこの2つ。

・他にすることがなかったんです
・学校のことを考えるのがしんどかったから

この2つの答えは実はつながっています。学校に行っていないことを考えるとしんどいし、空いた時間にすることがない。そのときにゲームという集中できる遊びはその2つの問題を一度に解決してくれるツールなのです。

多くの不登校の子たちは学校に行けていないことについて罪悪感はしっかり感じています。心の底からゲームを楽しんでいる子はいません。

一方で、不登校で1日中ゲームをするわが子を見て、ご両親(特にお父さん)は「学校も行かないくせに1日中ゲームで遊んで、何を考えてるんだ」という言葉が出てきてしまいます。親としては当然の感情でしょう。しかし、僕は思うのです。子どもたちは学校に行けないという現実から離れるためにゲームをしながら自分の心をごまかしながら何とかやり過ごしている。

なので、僕は不登校の子たちにゲームをするなとは言いません。ただ、ゲームをしている気持ちを理解していることを伝え、この居心地の悪い状態から抜け出す方法、つまりどうすれば今の状態から抜け出せるのか、何が学校に行くことを邪魔しているのかについて本人やご両親と模索することを続けるだけです。その原因は精神病、学校の状況、家庭の状況など様々でしょう。不登校の原因の多くはわからないというのはうそです。それはこちらが本人の状態を把握しきれていない証拠です。どこに原因があり、どこに糸口があるのか。時間はかかっても、その糸口を本人や家族と一緒に模索することが僕たちの仕事です。

2013年12月20日金曜日

見た目で重症度はわからない

激しいリストカットをするから、派手に暴れるから、大声で暴言をはくから重症で、表面的には静かで社交的だから軽症というわけではありません。

精神科や心療内科に通院されている方の多くは普通に仕事や家庭で社会的な日常生活を送っておられます。つまり、普段の姿や話し方だけで重症だなとわかる人はごく一部なのです。健康そうに普通に働いているように見える人で「えーあの人がうつ病だったなんて」みたいなことや、すごく明るくて元気な女の子の腕をたまたま見たらリストカットの痕がたくさんあったなんてことは珍しくありません。逆に言えば、普段の様子から感じられるくらい辛そうにしている人は状態がかなり悪いと言えるかもしれません。

前回の精神障害者のお話にもつながりますが、見た目にはわかりにくい上に、精神的な問題なのでご自身で何事もないように振る舞うこともできます。本人は何とか今の苦しい中でも乗り越えようとされているわけです(この時に僕は何かできることはないかなとお手伝いしたい気持ちになります)。

僕は人の心の奥深さというのはそんなに簡単にわかるものではないと思っています。長く診させていただく中でその人の状態や重症度が徐々に見えてくるのです。言ってしまえば、ものすごく重症だという判断はできても、軽症だという判断は難しいということです。


2013年12月18日水曜日

精神障害のある人にも杖がいる

街で足が不自由な人が歩こうとしています。それは誰が見ても歩くときの様子が不便に見えるので、周囲にいる人は大丈夫かな、転ばないかな、転びそうになったら手を差し伸べようかなと思います。

では、知的障害のある人、発達障害の人、精神障害をもっている人に対してはどうでしょうか。なんか怖いな、何かされたらどうしよう、変な人だな、薬をたくさん飲んでるんだろうな。こんなことを思う人は多いのではないでしょうか。僕自身、精神科医になる前にそんなイメージを持っていなかったといえばうそになります。

日々、精神障害を持った人たちにお会いする中で気づいたことは、精神障害を持った人にも足が不自由な身体障害の人同様、なんらかの「杖」が必要なのだということです。それがヘルパーさんによる生活援助なのか、コミュニケーションスキルなのか、切符の買い方やバスの乗り方などの社会的なスキルなのかということです。無論、通院や薬は身体障害のある人も通院や薬を必要とすることがあるはずです。

足が不自由な人が自ら選んで足が不自由なのではないのと同様、精神障害のある人も自ら選んでその状態になったわけではありません。精神障害を持った人たちの多くはごく普通の人たちです。テレビで事件を起こすような人はごく一部です。ただ、外から障害が見えにくかったり、一見不思議な行動や言動をするため一般の人からの理解を得にくいだけです。

僕は精神障害を持っている人の杖になりたいと思っています。

僕のブログを読んでくださっているみなさんにお願いがあります。街で少し不思議な感じの人に出会った時にはわざわざ近づいていけとは言いません。ただ、普通の一人の人として、その人を見てください。そしてその人が何か困ってそうな時は周囲の安全だけ確認できれば、足が不自由な人に手を差し伸べてるのと同様に、言葉をかけてあげてください。

2013年12月15日日曜日

The darkest time is just before dawn(一番暗い時間は陽が上る前のことだよ)

The darkest time is just before dawn.
一番暗い時間は陽が昇る前のことだよ

映画監督のヤン・ヨンヒさんがニューヨークで苦しい生活をしているときに友達から言われた言葉だそうです。

明けない夜はない、陽はまた昇る。似たような言葉をたくさん聞いてきましたが、この言葉は苦しい状況に置かれた時に一番力強く人の心を救ってくれるのではないかと感じました。

今、生きている状況が苦しすぎて、どうしていいかわからない、死んじゃったほうが楽だと思っている人たちに向けてこの言葉を贈りたいです。




2013年12月13日金曜日

点と点をつないで線にする

診察で患者さんが自分の困っていること、これまでの経過を話されます。当然ですが、患者さんは自分の中で強烈に印象に残っていること、自分として辛い部分を話されます。たとえば小学低学年のときのこと、高校3年のときのこと、社会人1年目の出来事など、点という形でお話しされる場合がほとんどです。話が大人になってからの話から急に幼少期にもどるなど時間が前後することも多々あります。つまり、患者さんは点として話されることがほとんどです。中には聴いているこちらが本当に聞き取りやすいように順を追って話してくれる人もいます。こんな方はほんとにありがたいです(笑)。

当然、ここでは順を追って説明できる、できないを批判したりしているわけではありません。順を追って説明できる場合には能力が高いのかなとか状態がまだそれほど悪くないのかな、話があちこちに飛んでしまう場合にはあまり状態はよくないのかなという判断の材料にはなります。

ただ、お話をお聴きする中で大切なのは患者さんが話される「点」を一つ一つお聴きして、その点と点の間をこちらが想像しながら「線」にしていくこと。つまり、その人が人生を生きる中で見て来られた景色をこちらが映像にして作って、その映像を一緒に見るイメージで患者さんに「こういう流れでこんな症状が出てきたんですね」などとこちらが説明しながら診察を進めていきます。こうすると治療するこちらもわかりやすくなりますし、患者さんにとってもご自身のことを理解してもらう助けになり、それがそのまま治療になります。

もちろんこれは難しいですし、うまくいかないこともあります。それには1回の診察だけではなく、丁寧な診察を重ねることが欠かせないと思います(笑)

2013年12月10日火曜日

まじめに治りたいと思っている人へ

昨日、弟と仕事の話になりました。弟が「まじめに治りたいと思ってる人には自分が持ってるものをすべて使って治療してよくなってほしいと思うよな」と。僕はこのとき、なんで僕がずっと思ってきたことをこのタイミングで言ってくれるのか、いみじくも言ってくれたな、わが弟!と思いました(笑)。

僕の考えの基本はやっぱりまじめに生きてる人がちゃんと報われる世の中であってほしいということです。それは病気の治療も同じ。まじめに治りたいと思ってご自身も努力されてる人が助けを求めているなら全力で答えたい。今の辛い状態から抜け出したくて必死にもがいている人の役に立ちたい。溺れそうになっている人を水上に引き上げて一瞬でも息が吸える状態にしたい。息ができる時間を長くしたい。病気や症状が回復していくということは少しずつ息ができるようになり、その時間が少しずつ長くなって、最終的には何の気兼ねなく息を思いっきり吸えることだと思います。

治療に対して真摯に向き合って治療者と一緒に努力したいと思ってくれる方のお役に立ちたい。


2013年12月7日土曜日

僕はレントゲン検査

今日は大阪小児科学会に参加してきました。久しぶりに小児科関連の発表を聴いて、診察所見、検査などのあとに診断というごく当たり前の流れに触れました。それを聴きながら、東京で小児神経科の勉強をしているときに上司の先生方がされていた身体診察の細やかさ、洗練された技術に感嘆した時期のことを思い出しました。その上司の先生方はまず検査ではなく丁寧な診察のもとに病気の種類を絞ってから患者さんに検査を受けてもらい、診察での予測と検査結果が一致するのかを確認されていました。僕が診察してもわからないものが、上司の先生が診察すると診断が見えてくる。その姿に憧れました。

現在の精神科医療では何かの機械で検査というのは一部を除いてほぼありません。つまり診察=検査です。僕は自分自身がレントゲン検査だと考えています。いかに正確に鮮明に精度の高いレントゲン写真を撮れるのか。患者さんが診察室に入ってこられたときの姿、表情、話し方、声の調子、さらに僕がどんな声をかけるのか、どんな質問をするのか、そしてその返答をどう捉えるのか。それが僕というレントゲンができる検査です。

このレントゲンの質を上げることが僕にとって必要なことです。そのために具体的にできることは丁寧な診察、日々の研鑽、そしてうちのスタッフからの情報の収集です。いつも自分のレントゲンのレンズを磨いて、患者さんの状態をより正確に把握し、治療ができるようになりたいです。

2013年12月6日金曜日

症状が重くなったときの治療の困難さ

医学の分野ではさかんに予防医学が叫ばれている昨今です。

精神科においてもそれは同じで、精神疾患の発病を予防するために規則正しい生活をしましょう、軽い運動をしましょう、早めに薬を飲みましょう、社会や職場での理解を深めるためにメンタルヘルスの講習会をしましょうと言われています。

日々の診療の中で、比較的軽症の段階で受診される方と、ぎりぎりまで待たれて受診される方がおられます。特に病院で勤務しているときは救急車に乗らないと受診できない、警察と一緒じゃないと受診できないような重症の方に出会いました。一方で、今のような外来診療であっても、かなり状態が悪くなって、初診の時点で入院も考慮しないといけない方もおられます。

病院やクリニックを含めた医療機関を受診するときの気持ちってどんなものでしょうか?

なんか怖いことを言われたらどうしよう、重症だったらどうしよう、はじめて会う人にこんなことを話しても大丈夫かな、こんなくだらないことを相談して変に思われないかな、それでなくても調子が悪くてマイナス思考になってるのに何か言われたらもっと落ち込むだろうな。

いろんな気持ちが交錯すると思います。僕も体調が悪い時に内科を受診するときは同じ気持ちです。つまり医療機関を気持ちよく受診するということはほぼないと思うので、できるだけ受診したくないというのは人情でしょう。ただ、自分の中で何か異変を感じているのに、それをごまかしながら日常生活を過ごして時間だけが過ぎて、そのときには症状や問題が大きくなっていることがすべてとは言わないまでも確かにあります。つまり重症化している状態です。

精神科の場合、症状が重くなって問題なのはご本人の気持ちや考えが病気の症状のせいでまとまらなくて、ご本人もイライラするし、家族も混乱しておられます。そうなると精神科医としても状態を把握しにくくなります。さらに状況が複雑になり、問題解決の糸口を探すのに時間がかかり、治療にも長期間を要します。そうなるとご本人、家族とも改善が見られないことへのいらだちが出てきて、お互いの衝突が増え、家族全体として状態がさらに悪くなるという悪循環になります。

治療させていただく立場としてはやはり早めに受診してほしいです。症状が初期で、状況を把握しやすく、複雑化していないため治療もしやすいので、治る確率も高まる。これらのことからいろんな意味でお勧めしておきたいです。

2013年12月3日火曜日

人を信じることの難しさ

僕は通常の診療以外に、子ども家庭センター、児童養護施設、支援学校の子どもたちと接することがあります。この時に僕が思うことは人を信じることの難しさです。人を信じることが到底できない厳しい状況で暮らしている子どもたちがいます。具体的には日々の愛情がないまま、親の感情の起伏のまま身体的、言語的暴力を受ける子どもたち、生きていくための養育を受けることができない子どもたち。

日常的に接する親が子どもたちに安心感を与えることができていれば、子どもたちは親という存在を信じることができます。そして一番近い存在である親を信じることができれば、外に出た時に人という存在を信じることができます。しかしその親が子どもたちに安心感を与えなけれな、外に出た時に人を信じることができなくなります。

こう書くと、子どもに安心感を与えるために、いつも子供を大事にして、できるだけ子どもに不快な感情を持たせないよう、機嫌を取る人がいます。しかし安心感を与えることと機嫌を取ることは違います。

この時の僕の結論は普段は思い切り愛して、間違った行動をしたときには思い切り叱るということです。さらに日常的に子どもたちを愛する、具体的にはご飯をちゃんと食べてるか、夜はちゃんと寝れてるか、学校で困ったことがないのかなど、日々子どもたちを心配しているという姿勢が子どもたちに伝われば、子どもたちは親の愛情、それから得られる安心感、つまり人を信じることを学びます。親を信じていれば、自分が間違ったことをしたときに叱られても、親を憎むことは決してありません。

それがかなわない不遇な環境で過ごしている子どもたちには僕が言うのもおこがましいですが、人を信じる体験をしてもらうことを目指しています。具体的にはそんな子どもたちに最前線で接している大人である、子ども家庭センターの職員の方、施設や支援学校の先生方に、子どもたちにとって信じられる存在になってもらえるよう、子どもたちの日々の悩み、食事、睡眠などの基本的なことについて尋ねてもらうようお願いしています。安定的な大人との関係を続けることが子どもたちが人を信じることにつながるのだと考えています。

2013年12月2日月曜日

「死にたい」という言葉

外来の中で「死にたい」と訴える方に出会うことは少なくありません。

同じ「死にたい」でも本当に十人十色です。その時に考えることは死にたいという言葉の意図、年齢、そのときの状況、その人の状態からその言葉の意味を想像するわけです。ただ、その中で本当に危ないなと思う方がおられます。

その時の死にたいという言葉はその人が普段は真っ暗な深い海に潜っている状態で、唯一水面の上まで上ってきて呼吸をする瞬間ではないかと考えています。死にたいという言葉を口に出すこと、人に伝えることで少し呼吸をして生き繋ごうとしている。さらにその時だけが自分が生きたいというメッセージを外に出している瞬間。つまり、「死にたい=生きたい」というメッセージなのです。生きたいからわざわざ人の前で死にたいと話すわけです。状態が悪すぎるときは言葉など出ない。うつ病や統合失調症の重症のタイプだと意識もはっきりせず、疎通も取れない状態があります。

僕は「死にたい」と話される方には「この人は心の底では生きたいんだな」と理解して、少なくとも、一旦は否定はしないようにしています。そしてお話を聴いた後に「死なないでくださいね、また待ってますね」と話しています。